🔴【第1話から読む】1歳半の息子が女の子の手をかんだ→相手の親が激怒で立ち込める暗雲|保育園で慰謝料請求された話
慰謝料を断る覚悟を決めたゆかりさん。園でふたたび久美子さんたちに呼び止められ、強く冷ややかな言葉を浴びせられます。
決意の朝
久美子さんにはっきり伝えると決めた次の日の朝、玄関を出て顔を上げると、空がいつもより澄んで見えました。親友たちに話せたことで、ようやく心の霧が晴れたようでした。
夫も「堂々と言えばいい、何かあったら俺が出ていくから」と背中を押してくれました。
今日はちゃんと断る。ちゃんと、終わらせる…。
たつきの手を握りながら、私は保育園の門をくぐりました。その瞬間―――。
「おはようございます、沢田さん」
久美子さんから声をかけられたのです。私はたつきを預けたあと、久美子さんの前に立ちました。久美子さんはおだやかそうにしているけれど、するどい光を感じるような笑顔でした。
「先日は、わざわざご足労いただきまして」
軽く頭を下げたあと、久美子さんはまっすぐ私を見て言いました。
「今日は、あの件でお考えをうかがいたくて」
…きた。私は間髪入れずにこう言いました。
「申し訳ありませんが、お支払いはできません」
私は、できる限り落ち着いた声で言いました。
「それは、あなたのお子さんが悪いと思ってないということ?」
「いいえ、違います。噛んだ事実については何度もお詫びをお伝えしています。でも、園での子どものトラブルについて私たちが慰謝料をお支払する必要はないと思っています」
私は目をそらしませんでした。
支配の言葉と笑顔。そして意外な人が…
久美子さんは、視線を外さず微笑んだまま言いました。
「そうですか。もしもね?もしも、私の娘が誰かを傷つけたら。私は当然、治療費や慰謝料をお支払いすると思うのよね。お考えが違うというのは残念なことです。とっても」
久美子さんが本当にそういう考えなのか、今は被害者側だからそう思うのかはわかりません。でも、私なら払うんだからあなたも払え、というのは暴論です。
「すみません。では失礼させていただきます」
ちゃんと言えました。声は裏返ってしまったけれど。私は頭を下げ、その場を離れました。背中に浴びせられる視線の重さは、私の中にしばらく居座っていました。
その日の帰り道、スーパーで買い物をしていると、同じクラスのママ・恵美さんに声をかけられました。いつも元気で、テキパキしている同級生ママです。朝の一連の流れを見ていて、ことの顛末もうわさに聞いたといいます。
「久美子さんのことは、ほっといて大丈夫だからね」
恵美さんは年長に上の子がいて、久美子さんのこともよく知っています。
「あの人、お金が目的じゃないよ。自分の下につくような人間を探してるの。従ったら終わりよ」
恵美さんは真剣な目で言いました。久美子さんの貼りついたような笑顔を思い出してゾッとしました。
「でも大丈夫、堂々としていてね。沢田さんはちゃんと謝罪したんだから」
恵美さんはそう言って、カゴを持ち直すと、にこっと笑いました。
「だから、大丈夫。絶対に、何もしちゃダメだよ」
私はうなずくことしかできませんでした。その場で泣きそうになるのを堪えながら、何度も頭を下げて、別れました。
秋空の下の終幕
数日後、園では、たつきが楽しみにしていた芋ほり大会が行われました。私も楽しみだった保護者参加行事です。久美子さんは夫婦そろって参加していました。
といっても、たつきは1歳児クラスなので、先生があらかじめ掘っていたおいもを「おいもさんあるかな〜?」と掘り返すだけのものでしたが、得意げにおいもを持つ姿に感激してしまいました。
ですが、その時―――。
「きゃっ!」
年長クラスの畑の方で、女の子の声がしました。見ると、久美子さんの娘さんと、恵美さんの娘さんがもつれ合って転んでいました。どうやら、ふざけてぶつかった拍子に、2人ともバランスを崩したようでした。
幸い、どちらにも大きなケガはありませんでしたが、ただ、恵美さんの娘さんの頬に、少しだけ擦り傷ができていました。久美子さんの顔が、凍りついたように強張っていくのが見えました。でも、恵美さんは何事もなかったように、娘さんたちに駆け寄り、やさしく言いました。
「よしよし、大丈夫。びっくりしただけだね」
救護係の先生を呼び、ふたりを見送って、久美子さんに振り返って言ったのです。
「うちは、慰謝料はけっこうですから」
秋の澄んだ空に響きわたるような、通る声ではっきり言ったのです。その言葉が、周囲の空気を一瞬で変えました。
「慰謝料…?」
「えっ?あの話、本当だったの?」
ざわざわと、保護者たちの間で小さな波紋が広がっていくのがわかりました。久美子さんは顔を真っ赤にしています。そんな久美子さんを気にも留めず、恵美さんはさっさと保健室へ行ってしまいました。
その横で、久美子さんの夫が言いました。
「お前がおかしなことを言うからだろ…」
久美子さんはよっぽど恥ずかしくなったのか、その場を立ち去りました。その後、久美子さんは以前よりも静かになり、目立つこともなくなったように思います。
たつきは今日も元気に登園しています。私もまた、ようやく普通の日々を取り戻しつつあります。
自分の子を守ること、そして自分自身を守ること。そのふたつは、同じくらい大切なんだと、私はやっとわかりました。子どもがいるとさまざまなトラブルに見舞われて慌ててしまうことがありますが、周囲の意見を聞きながらじっくり対処することが大事だと思います。
あとがき:悩み抜き、最後には貫いた信念
誰かの正しさに押しつぶされそうになっても、自分の中の小さな声を信じること。母として、人として、ゆかりさんは傷つきながらもその声を守り抜きました。彼女にとっての誠意は、形ではなく、まっすぐな覚悟でした。
※このお話は、ママリに寄せられた体験談をもとに編集部が再構成しています。個人が特定されないよう、内容や表現を変更・編集しています










